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入れ子物語

入れ子物語の世界

入れ子物語

おと、ことば、身体、呼吸、光と影、すべてが組み合わさり作用し合い、強い身振りが生じる。澁澤龍彦の『夢 ちがえ』をもとにした、「音」の無い現実と「音」の在る夢の狭間の物語。

夢ちがえ

私は『ある世界』に憧れを抱き、心の奥底でいつも、その世界を探し求めている。『ある世界』とは、現実をとりまく、実際には『無い』世界。でも、どこかに『在る』ことを知っている。なぜなら、私はそこに引きずり込まれそうになるのを、いつも感じるから。

『ある世界』をのぞいてみようとする。子供のときは、そのために絵本を開き、お姫様ごっこをした。いま私は、鏡や人形を前に『ある世界』をかいま見る。鏡の中の世界や人形の世界。その世界は私がそこに『見る』ことによって、初めて存在する。『見』なければ、私はその世界にとらわれずに済む。でも『見』てしまう。私は鏡や人形に『見る』ように脅迫されている。そして、その世界に魅せられずにはいられない。

夢を見ることも『ある世界』に足を踏み入れる方法のひとつである。私は眠りの世界でなるべく夢を見ようと試み、起きているときでさえも夢が作れないかと試してみる。そのために音楽を作る。

「夢ちがえ」とは、 悪夢を見たとき、それが正夢とならないよう、まじないをすることである。私はこの言葉を『現実と夢を違える』と解釈する。現実が夢となり夢が現実となり、どちらがどちらともわからない『ある世界』を作り出す。 すなわちこの作品は、4人の演奏家が楽器とことばを用いて行う、『現実と夢を違える』ための、夢ちがえの儀式である。

夢と入れ子

『夢』は、現実の世界を層のようにとりまいた、もうひとつの世界である。私たちが夢を見ているとき、それは、もうひとつの世界をのぞいているときだ。つまり、『夢』は人それぞれの個々の世界ではなく、実はすべてつながったり重なったりして存在する。私たちは夢の中で、もうひとつの世界のほんの一部分をのぞいているにすぎないのである。

言葉と音

言葉と音の関係性の追求は、私の創作の中心となるテーマである。私は言葉を「もともとそれ自身の内に音やリズムを持つもの」と考えている。そのため、すでに音楽を持つ『言葉』に音楽をつけることは、新しい音のカバーをかぶせ、音の入れ子を作るようなものである。

《入れ子物語》は、言葉と音を全く同等に扱うことを主旨とする。言葉と音のどちらかが先にあり、もう片方後からかぶせる方法ではなく、言葉と音を同時に選択する。その音にスタッカートをつけるかテヌートをつけるかと同じように、『あ』にするのか『い』にするのかを決める。つまり、言葉が音をヴァリエーションする。言葉と 音が強く結びつき、互いに必要不可欠な『音=言葉』の状態を作り出す。

この作品で、私は「澁澤龍彦の『夢ちがえ』」を音楽で再現しようと試みた訳ではない。『夢ちがえ』はこの作品の背景にすぎない。したがって、テキストは古今東西の夢に関する文献を集め、音に合わせて変化させたものを用いている。

 

澁澤龍彦『夢ちがえ』のあらすじ

生まれ落ちて以来、耳が聴こえないために、万奈子姫は城の望楼に閉じ込められて暮らしていた。耳が聴こえない分、『見る』ことが人一倍望ましく、全世界を吸収するかのように壁の穴から世界を見つめていた。あるとき姫は矢狭間から、田楽の稽古をしている青年・宮地小五郎に目をとめる。その夜以後、姫は夢の中で楽の音を聴き、小五郎の踊る姿を見るようになる。 現実に音を知るより早く、姫は夢の中で音を知ったのである。姫は、夢と現実を逆転させて、現実の世界で音を聴くことができないものかと考えるようになる。

このところ夢見の悪い小五郎のために、愛人の蘭奢は、比丘尼に夢を解いてもらう。 小五郎は夢を見ているのではなく、見られている。強い力で引っ張られ、万奈子姫の夢の中に誘い込まれている、と比丘尼は言う。万奈子姫のような耳しいたものは、目の力が異常にすぐれ、他人の夢を吸い込んでしまうらしい。比丘尼は蘭奢に、老女の面を被り、夢を取り違える儀式=夢ちがえの儀式をするように言う。

夢ちがえの儀式をするため、小次郎と田楽法師たちは奥津島に集まる。そこへ現れた蘭奢は、あろうことか若女の面を被っていた。その過ちが儀式に信じられないような異変を引き起こし、夢ちがえは無惨な結果に終わる。そして、事態は大きく変わって行く。

ireco monogatari 2010